「終活」という言葉に違和感を感じる

夫が大腸がんになってから、「死」というものを身近に考えるようになりました。
その中でやはり「終活」という言葉が周囲に溢れてきました。
ただ、私たち夫婦は「終活」という言葉に違和感を感じていることもお互いに確認していて、時々、その話になります。

具体的になぜ違和感があるのかは言葉にするのはとても難しいのですが、確かに、自分が亡くなったとき、家族が困らないようにしておくというのは必要だと思いますが、それを「終活」という言葉にまとめてしまうことに違和感があるのかもしれません。

沖縄では「先祖崇拝」「祖先崇拝」が主な信仰であり、小さな頃からその考えが身近にあります。
真言宗などのような宗派はなく、お葬式の際にお坊さんをよんでお経をお願いしますが、特に宗派も気にせずお願いすることがほとんどです。

夫が大腸がんになる少し前から私たち夫婦は家系図を作って夫や私に関係する人の洗い出しをしたり、その人たちに会いに行ったりする中で色々学ぶことが多く出てきました。
そして自然な流れで、お互いのどちらかが亡くなった時にこうやってほしい、こうやりたい、という意見交換を普段から当たり前のように生活の中に取り入れています。

私の伯母夫婦は2人とも70代後半なのですが、伯母がもし自分が亡くなったら・・・という話をすると伯父がとても嫌がるという話を最近よくしています。
伯父の気持ちはわかりますが、誰でもいつか、「その時」がくると考えています。
その時に「ああやっておけばよかった」「あれをまだやっていない」という気持ちがありながら自分の体が動かなくなっていくのはとてもストレスだな、と思うので、叔母は色々準備したいのだと思います。
伯父の気持ちも、伯母の気持ちもとてもよくわかるので、今は間に入って少しずつお互いの希望を聞くようにしています。

タイトルではなんだかガツン、と強い言葉になってしまっていますが、今の気持ちをこうやって書き留めておくことが後で見直した時にも絶対に必要ではないかと思ってつらつらと。

ちなみに私たち夫婦に関しては
・葬儀のこと
・生きていくために必要な情報
・自分の希望、やってほしいこと
などをよく話し合っています。

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